更新平成21年9月22

                


              御嶽神社の由緒



  <御嶽神社の紹介>

 御嶽神社の御祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)です。
この神社の起源は、もと大和の国(奈良県)の芳野(吉野)の里に祭られていた蔵王権現です。
ここ千葉県船橋市前原は江戸時代の開拓地で、当時非常に苦しい生活の時代であった延宝元年(1673年)に初代上東野新助氏が江戸鍛冶橋の行者釈仙竜師を伴い、前原開拓地3ヶ村
の守護神として蔵王権現を大和の大峰山から奉遷し、住民の崇敬をあつめて村作りが行われ、それ以来開拓地の精神的シンボルとなって前原の地に根付いています。
 明治維新の際に蔵王権現の称を御嶽神社に改め、その後昭和33年に、蔵王権現三尊立像は県有形文化財に指定され、さらに社殿は火災と再建を経て現在に至っております。
 元旦祭・節分祭・例祭・七五三・日常の祈祷などを通じて、歴史と伝統を持つ御嶽神社は前原地区の
氏神様として住民に崇拝され、その神域は、緑濃い森に囲まれた境内が、参拝者や地域住民の散歩道となり、憩いの場ともなって、親しまれています。



 

 <御嶽神社由緒 天皇在位六十年奉祝事業竣工碑による>

御嶽神社は、御祭神が素戔鳴尊(すさのおのみこと)、ご神体は蔵王権現像である。
遠近祖孫の尊信が厚い木造蔵王権現三尊立像は桧材造りであり中尊は像高96糎で瞳の部分に水晶を入れている。
両脇侍像は像高58糎で水晶の玉眼である。鎌倉時代の製作といわれ、昭和三十三年四月千葉県指定有形文化財に指定され、同五十二年東京都明珍昭二によって修理された。延宝元年(1673年)上東野新助(旧名為右衛門)は、もと大和国吉野に祭祀された尊像を開村の守護神として請い受け、林光院釈仙龍を祠掌として迎え、江戸の神田鍛冶町から開拓地まえばらの清流湧出する丘に遷座し、新田十二石八斗五合を献じて年年の祭資に充てた。正徳五年(1715年)八月仙龍が職を辞し、田喜野井村正法寺釈精養に委託された。

 明治維新となり神仏分離、神仏職の区分が厳達された明治三年(1870年)一月権現の称を廃し御嶽神社と改め、上東野保義(旧名新次郎)が社掌に選ばれた。社境祭田については、高橋平三郎、森田新左衛門、上東野金右衛門、上東野新八等が田喜野井村との間を周旋して、ほぼ元に復し、同十三年四月上東野勇次郎が御神徳の弥栄を祈念し一村の共有に改めた。
 同二十年大火にあい御神体は氏子決死の働きによって難をのがれ小林初太郎方に安置された。本殿復興を期し同年拝殿、同二十六年本殿が再建された。
 第二次大戦後農地改革が行われ、本社領も農地改革の対象とされた。昭和二十八年(1953年)七月田久保美之吉を代表役員とする宗教法人御嶽神社が設立された。同三十一年本殿屋根の改修がなされた。同三十八年二月火災により社殿が焼失し、御神体は難を免れ小林三郎方に一時安置された。同年本社領の二宮小学校敷地を船橋市が買い受けた。同資金及び奉納金により昭和四十年社殿客殿社務所が再建された。同四十九年には神楽殿が新築された。長年にわたり資金の募集に事業の推進に、氏子総代諸氏が尽力され氏子諸氏等が協力された。
 昭和天皇御在位六十年奉祝記念事業として同六十一、六十二両年に玉垣造成、造園、擁壁工事が実施された。その竣工に際し本社の沿革を記し事業の概略を録し永く奉謝の意を表する。


昭和六十二年(1987年)三月吉日
                御嶽神社 宮  司  田久保敦利
                御嶽神社 総代会長  瀬 山 久